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SNSでの発信は自己表現として有益でしょうか。

SNSでの発信は自己表現として有益でしょうか

開会の主張

  • 開会の主張は、肯定側および否定側の第一発言者によって行われます。議論の構造は明確で、言語は流暢、論理は一貫しており、自チームの立場を正確に説明する必要があります。深みと創造性が求められ、3~4の主要な論点があり、それぞれ説得力がある必要があります。

肯定側の開会の主張

否定側の開会の主張


開会主張への反論

  • このパートは各チームの第二発言者によって行われます。目的は、相手チームの開会主張に反論し、自チームの主張を補強・拡張し、自チームの立場を強化することです。

肯定側第二発言者の反論

  • 否定側第一発言者の発言に対する反論

否定側第二発言者の反論

  • 肯定側第一および第二発言者の発言に対する反論

反対尋問

  • このパートは各チームの第三発言者によって行われます。第三発言者は、相手チームの主張と自チームの立場に関する3つの質問を作成します。一方のチームの第三発言者は、相手チームの第一、第二、第三発言者にそれぞれ1つずつ質問します(本ディベートでは、第四発言者への質問も許容される特殊ルールを採用)。質問を受けた者は必ず回答し、回避や逃避はできません。質問は交互に行われ、肯定側から始まります。
  • 反対尋問の間、両チームは明確で正式な言語を使用する必要があります。終了後、第三発言者は相手チームの回答について簡単に要約し、肯定側が先に行います。
  • 両チームの質問と回答をシミュレーションし、深み、創造性、鋭さ、的確さ、ユーモアを兼ね備えた内容とします。

肯定側第三発言者の質問

  • 肯定側の反対尋問の内容と否定側の回答
  • 肯定側反対尋問のまとめ

否定側第三発言者の質問

  • 否定側の反対尋問の内容と肯定側の回答
  • 否定側反対尋問のまとめ

自由討論

  • 自由討論の段階では、両チームの4人の発言者全員が参加し、交互に発言します。この段階ではチームワークと全体の連携が求められます。自由討論は肯定側から始まります。
  • 両チームの発言をシミュレーションし、深み、創造性、鋭さ、的確さ、ユーモアを兼ね備えた内容とします。

最終陳述

  • 相手チームの意見と自チームの立場を基に、各チームは自チームの主張をまとめ、最終的な立場を示します。

肯定側最終陳述

  • 肯定側最終陳述の内容

否定側最終陳述

  • 否定側最終陳述の内容

開会の主張

肯定側の開会の主張

皆さん、こんにちは。本日我々肯定側は、「SNSでの発信は自己表現として有益である」と断言します。なぜなら、SNSはこれまで声を持てなかった人々に「自分らしく在る」ための舞台を提供し、自己理解と社会的つながりを深める力を持っているからです。

まず第一に、SNSは民主的な自己表現のインフラです。かつて自己表現といえば、芸術家や作家、メディア関係者といった限られた人々の特権でした。しかし今や、スマホ一つで誰もが世界に向けて自分の考え、感情、創造物を発信できます。障がいを抱える若者がイラストで内面を語り、地方の農家が日常を動画で共有し、マイノリティが自らの声を届ける——こうした事例は、SNSが「表現の格差」を劇的に縮めた証です。

第二に、自己表現は人間の尊厳の根幹であり、SNSはそれを可視化する鏡です。心理学者マズローは「自己実現」を人間の欲求の頂点としました。SNSは、自分が何を信じ、何に感動し、何を大切にしているかを言語化・可視化する場です。投稿を通じて「これが私だ」と宣言することは、自己同一性を確立する行為であり、それは精神的健康にも寄与します。実際、LGBTQ+の若者がSNSを通じて自己受容に至ったケースは数え切れません。

第三に、SNS上の自己表現は孤立を打破し、共感の輪を広げます。一人の詩人の短い投稿が何万もの共感を集め、それが新たな創作の連鎖を生む。趣味や価値観を共有するコミュニティが自然発生し、リアルでは出会えなかった仲間とつながる。これは単なる「いいね」の数ではなく、人間同士の本質的なつながりの再発見です。

もちろん、否定側は「承認欲求」「虚飾」「炎上リスク」を指摘するでしょう。しかし、それらはSNSの本質ではなく、使い方の問題です。道具に罪はありません。大切なのは、どう使うか——そして我々は、SNSを自己表現の翼として活用できると信じます。

よって、SNSでの発信は、現代における自己表現として極めて有益であると主張いたします。


否定側の開会の主張

審査員の皆様、反対側は「SNSでの発信は自己表現として有益ではない」と明確に主張します。なぜなら、SNS上の自己表現は、多くの場合、「本当の自分」ではなく「アルゴリズムと承認に最適化された仮面」にすぎず、長期的には自己疎外と社会的分断を招くからです。

第一に、SNSは自己表現を「パフォーマンス」へと変質させます。ユーザーは無意識のうちに「どれだけいいねがもらえるか」「バズるかどうか」を意識して投稿します。その結果、朝焼けの写真にフィルターをかけ、悲しみを隠して笑顔だけを晒し、「完璧な日常」を演出する。これは自己表現ではなく、自己商品化です。哲学者ジル・ドゥルーズが警告した「監視社会」は、今や私たち自身が自分を監視し、編集し、売る時代になったのです。

第二に、SNSの構造は自由な表現を逆に抑圧します。アルゴリズムは「安全でポジティブで短い」コンテンツを優先し、複雑な感情や批判的思考は埋もれます。さらに、一度の発言が炎上すれば、社会的抹殺につながることすらあります。このような恐怖の中で、「本当に言いたいこと」を書けるでしょうか? 自己検閲が常態化した空間に、果たして「有益な自己表現」など存在するでしょうか。

第三に、SNSは自己理解を妨げ、他者との比較地獄を生み出します。心理学研究(FOMO:Fear of Missing Out)が示すように、他人のハイライトばかりを見続けると、自分の人生が劣っていると錯覚します。その結果、自己価値が外部評価に依存し、「私は誰かに認められてこそ存在意義がある」という危険な思考に陥ります。これは自己表現の目的——内面の解放と成長——とは正反対です。

肯定側は「誰でも発信できる」と言いますが、発信できる≠自由に表現できる。量の拡大が質の深化を保証するわけではありません。むしろ、SNSは自己表現という神聖な行為を、クリックとエンゲージメントの奴隷にしてしまったのです。

ゆえに、SNSでの発信は、自己表現として有益どころか、有害であると断じます。


開会主張への反論

肯定側第二発言者の反論

審査員の皆様、先ほど否定側は、「SNSでの発信は仮面のパフォーマンスにすぎず、自己疎外を招く」と主張されました。しかし、この見解には三つの根本的な誤りがあります。

1. 「本当の自分」という幻想に囚われている

否定側は、「本当の自分」が存在し、SNSはそれを歪めると前提しています。しかし、社会学者アントニー・ギデンズは『現代性と自己アイデンティティ』で、「自己とは固定的なものではなく、社会的相互作用の中で継続的に再構成されるプロジェクトである」と述べています。つまり、「素の自分」というものはそもそも存在せず、私たちは常に他者との関係性の中で「自分」を演じ、調整し、育てていくのです。

SNSはそのプロセスを可視化し、加速させるツールにすぎません。舞台で役を演じることが「嘘」ではないように、SNS上で異なる側面を試すことは、自己探索の一形態です。むしろ、否定側の主張は、「自己表現とは静かに内省すべきものだ」というロマン主義的幻想に過ぎず、現代社会における自己形成の複雑さを無視しています。

2. 構造的リスクをSNS固有の問題にすり替えている

確かに、アルゴリズムや炎上リスクは存在します。しかし、それらはSNSに特有の問題でしょうか?
新聞社は編集方針で記事を制限し、テレビ局は視聴率でコンテンツを捻じ曲げ、出版業界は売れ筋に偏ります。あらゆるメディアは何らかの「フィルター」を持ち、表現は常に「受容可能性」の枠内で行われてきました。

SNSの画期性は、そのフィルターをユーザー自身が選べる点にあります。匿名アカウントで政治的意見を述べたり、別垢で趣味を共有したり——こうした「多重自己」の運用は、むしろ自己表現の自由度を広げています。否定側が描くのは、すべてのユーザーがインフルエンサーのように「完璧な自分」を演出しているという一面的なイメージです。現実には、多くの人がSNSを日記代わり、メモ代わり、あるいは小さなコミュニティとのつながりの場として、極めて私的な方法で使っています。

3. 危険を理由に可能性を放棄してはならない

最後に、否定側は「有害だから禁止すべき」という禁欲主義に陥っています。しかし、火は家を燃やす危険がありますが、だからといって人類が火を使わないとは考えません。SNSも同様です。リスクがあるからこそ、リテラシー教育やプラットフォーム設計の改善が必要なのであって、自己表現の可能性そのものを否定するのは、時代の流れに逆行する思考です。

よって、SNSは不完全ではあるものの、現代において最もアクセス可能で柔軟な自己表現の場であると再確認いたします。


否定側第二発言者の反論

審査員の皆様、肯定側はSNSを「民主的な自己表現のインフラ」と称しましたが、その楽観は三つの点で現実から乖離しています。

1. 「誰でも発信できる」=「誰の声も届かない」

肯定側は「障がいのある若者や地方の農家が声を届けられる」と言いますが、果たしてそうでしょうか?
実際には、SNS上ではフォロワー数やエンゲージメント率が「声の大きさ」を決定します。結果として、既に注目されているインフルエンサーや企業アカウントがアルゴリズムによって優遇され、一般ユーザーの投稿は瞬く間にタイムラインの底へ沈んでいきます。MITの研究によれば、X(旧Twitter)で95%以上の投稿は10回以下のいいねしか得られないといいます。

これは「声を持てなかった人々に舞台を与えた」のではなく、「誰もが舞台に出られるが、観客はスターだけを見る」という新しい格差です。量の民主化が、質の寡占を生んでいるのです。

2. 自己実現は「外部評価」から生まれない

肯定側はマズローの「自己実現」を持ち出しましたが、自己実現とは他者からの承認ではなく、内的な充足から生まれるものです。哲学者チャールズ・テイラーは『自己の源泉』で、「真の自己理解は、静かな対話と内省を通じてのみ達成される」と述べています。

ところがSNSは、投稿のたびに「いいね」「コメント」「シェア」という即時フィードバックを求めます。この構造は、自己を「他人の目を通してしか捉えられない存在」に変質させます。心理学の用語で言えば、これは「コンティンジェント・セルフ・ワース(条件付き自己価値)」の典型です。自分の価値が「何人に認められたか」に依存するようになれば、それは自己表現ではなく、自己の商品化です。

3. 「共感の輪」は排他的なエコーチェンバーになる

肯定側は「共感の輪がつながりを生む」と言いますが、その「共感」はしばしば「同調圧力」に変わります。例えば、特定の政治的意見やライフスタイルを表明すると、同じ考えの人々からは支持されますが、少しでも逸脱すれば即座に排除されます。「#〇〇派」というハッシュタグの下で形成されるコミュニティは、しばしば異論を許さない閉鎖空間となります。

これは「つながり」ではなく、「分断の温床」です。自己表現が本来持つはずの「多様性の受容」や「対話の促進」とは正反対の機能を果たしているのです。

結論として、SNSは自己表現の理想を装いながら、実際には自己を外部評価に従属させ、他者との真の対話を阻害する装置となっています。有益どころか、自己表現の本質を侵食していると断じざるを得ません。


反対尋問

肯定側第三発言者の質問

【第一発言者への質問】
否定側第一発言者は、「SNSでの自己表現は『本当の自分』ではなく仮面だ」と述べられました。ではお尋ねします——「本当の自分」とは、一度きりの固定された存在でしょうか?それとも、社会との相互作用の中で試行錯誤しながら形成される流動的なものでしょうか?

否定側第一発言者の回答:
「本当の自分」は確かに流動的です。しかし、SNSはその流動性を「承認獲得のための演技」に歪めます。朝焼けにフィルターをかけるのは自由ですが、それが『本当の自分』の探求ではなく、他人の目を意識した最適化である限り、それは自己疎外です。


【第二発言者への質問】
否定側第二発言者は、「アルゴリズムが自由な表現を抑圧する」と主張されました。では、テレビや新聞といった伝統メディアと比べて、SNSの方が表現の自由度が低いとお考えですか? 例えば、地方の高校生がLGBTQ+としての悩みを投稿する際、新聞社に原稿を送るのと、Xでツイートするのと、どちらが現実的に“自分の声”を届けられるでしょうか?

否定側第二発言者の回答:
伝統メディアにも制約はありますが、少なくとも編集者が内容の責任を負います。一方、SNSは無責任な拡散と即時炎上のリスクを内包しており、結果としてユーザーは自己検閲に走らざるを得ません。自由度の「量」ではなく「質」が問題なのです。


【第四発言者への質問】
否定側は「SNSは有害だから自己表現に不適」と主張されます。では逆に伺います——火は料理にも暖房にも使えるが、誤れば火災を引き起こします。それならば、人類は火を使うべきでないとお考えですか? リスクがあるからといって可能性を全否定するのは、非現実的ではありませんか?

否定側第四発言者の回答:
火とSNSは異なります。火は道具であり、SNSは社会的関係性そのものを再構築するインフラです。火の誤用は物理的被害に留まりますが、SNSの誤用は自己概念そのものを侵食します。だからこそ、単なる「使い方の問題」では済まされないのです。


肯定側反対尋問のまとめ

否定側は一貫して「SNSは自己を歪める」と主張しましたが、その根拠は「理想の自己表現」に対する過度な純粋主義に陥っています。「本当の自分」は完璧な静止画ではなく、試行錯誤の動画です。SNSはその編集ソフトであり、フィルターも演出も、自己探索の一形態です。
さらに、伝統メディアとの比較において、否定側は「責任ある編集」を称賛しましたが、それは同時に「門番による排除」でもあります。声を持たなかった人々にとって、SNSは初めてのマイクです。
最後に、火の比喩への反論は興味深かったですが、「自己概念の侵食」という主張こそが、逆にSNSが自己表現に極めて深く関わっている証左ではないでしょうか? 有害ならなおさら、私たちはそれを健全に使う知恵を育むべきです。


否定側第三発言者の質問

【第一発言者への質問】
肯定側第一発言者は、「SNSは誰でも発信できる民主的インフラ」と述べられました。ではお尋ねします——アルゴリズムによって99%の投稿は閲覧されず、バズるのは0.1%のコンテンツだけという現実において、「誰でも発信できる」ことが果たして「誰の声も届く」ことを意味するとお考えですか?

肯定側第一発言者の回答:
声が「大衆に届く」ことだけが自己表現の目的ではありません。日記を書く人も、読まれなくても自己理解を深めます。SNSはその現代版です。たとえ10人にしか読まれなくても、共感してくれる1人がいれば、それは尊い自己表現の成果です。


【第二発言者への質問】
肯定側第二発言者は、「外部評価への依存は使い方の問題」と主張されました。では心理学の観点から——「いいね」が得られないと不安になり、「投稿しない日は自分に価値がない」と感じる若者が増えている現状を、単なる「使い方の未熟さ」と片付けられますか? これは「条件付き自己価値(contingent self-worth)」という深刻な心理的依存ではないでしょうか?

肯定側第二発言者の回答:
そのような事例が存在することを否定しません。しかし、それはSNSの本質ではなく、社会全体の承認文化と教育の欠如が原因です。SNSを禁止しても、その欲求は別の形で現れます。むしろ、SNS上で「いいねゼロでも投稿する勇気」を称える文化を育てるべきです。


【第四発言者への質問】
肯定側は「共感の輪が広がる」と称賛しますが、現実はどうでしょうか? 同じ趣味や思想の人々だけが集まり、異論を排除する「エコーチェンバー」が形成され、社会は分断されています。このような排他的なコミュニティが、果たして「自己表現の深化」ではなく「自己の閉塞」を招いていないとお考えですか?

肯定側第四発言者の回答:
エコーチェンバーのリスクは認識しています。しかし、SNSには「#違う意見も聞こう」のようなハッシュタグ運動もあり、多様性を求める動きも生まれています。閉塞は一時的で、長期的には異なる声同士の出会いの場にもなり得ます。鍵は、ユーザーの主体性とリテラシーです。


否定側反対尋問のまとめ

肯定側は一貫して「SNSは中立的で、使い方次第」と主張しましたが、それはSNSの構造的問題を看過しています。
まず、「誰でも発信できる」は幻想です。アルゴリズムは見えない選別を行い、声の民主化ではなく「可視性の寡占」を生んでいます。
次に、「条件付き自己価値」の危険性を「教育の問題」と切り離すのは、SNSが承認メカニズムをシステムとして内蔵している事実を無視しています。
最後に、エコーチェンバーについて「主体性で乗り越えられる」と楽観されましたが、人間はそもそも快適な情報環境に留まる傾向があります。SNSはその本能をビジネスモデルとして利用しているのです。
よって、SNSは自己表現を解放するどころか、新たな従属装置となっていると断じます。


自由討論

肯定側第一発言者
「否定側は『本当の自分』という神聖な像を頭に置いていますが、果たしてそんな固定された“本物”が存在するのでしょうか? ジョン・デューイは『自己は経験の過程で形成される』と言いました。SNSでの投稿は、まさにその“試行錯誤の日記”です。フィルターをかけようが、笑顔だけ晒そうが——それはある瞬間の自分が選んだ表現。それを“仮面”と呼ぶなら、リアルの私たちは毎日、職場や学校で何重もの仮面を被っていることになりますね。それこそ、自己疎外ではないでしょうか?」

否定側第一発言者
「面白いですね。ではお尋ねします——あなたが朝、Instagramにアップする前の10枚の写真を削除するのは、『自己の試行錯誤』ですか? それとも『いいね欲しさの編集』ですか? SNSの問題は、その“編集”がアルゴリズムと承認の両方に最適化されている点です。火の例えを出されましたが、火は使い方次第で暖を取れますが、SNSは最初から“燃やす構造”で設計されています。炎上ビジネスが成立するプラットフォームで、果たして“健全な自己表現”など育つでしょうか?」

肯定側第二発言者
「確かに炎上はあります。でも、新聞社が誤報を書けば社会的制裁を受けますし、テレビ番組が差別的なら放送停止になります。SNSの違いは、“誰もが編集長になれる”ことです。地方の高校生がLGBTQ+について語る動画が100万再生され、それが教育現場を変えた事例があります。これは“量の民主化”が“質の可能性”を開いた証拠です。否定側は、声が届かない大多数の存在を忘れていませんか? アルゴリズムに埋もれる声もある——でも、かつてはそもそもマイクすら持てなかった人たちが、今やマイクを握っているのです!」

否定側第二発言者
「マイクを握ったのは事実ですが、そのマイクは“音量を自動調整するAI”に接続されています。99%の声はミュートされ、残り1%の“バズる声”だけが拡声されます。これが新たな格差です。そしてその1%の声は、往々にして感情的・極端・単純です。複雑な悩みや曖昧な感情は、アルゴリズムの餌にはなりません。結果、ユーザーは“わかりやすい自分”しか表現できなくなります。これは自己表現の貧困化ではありませんか? まるで、魚に鶏スープを飲ませるようなものです——どんなに栄養があっても、それは魚の酸素ではない!」

肯定側第三発言者
「しかし、鶏スープを拒否する魚ばかりではありません。TikTokで哲学を語る17歳が現れ、50万人が“難解な本”を読み始める——これがSNSの力です。否定側は“完璧な自己表現”を求めすぎていませんか? 表現とは不完全だからこそ、他者との対話が始まるのです。SNSはその対話を可能にする“公共の広場”。そこに多少のゴミや騒音があるからといって、広場を閉鎖すべきでしょうか? それとも、清掃ボランティアを増やすべきでしょうか?」

否定側第三発言者
「広場はすでに監視カメラと広告看板で覆われています! しかも、その広場の地図はMetaやX(旧Twitter)が描いています。彼らの利益は“ユーザーの滞在時間”であり、“深い対話”ではありません。だから、怒りや嫉妬、FOMO(取り残され不安)を煽る設計になっている。心理学では、外部報酬に依存した行動は内的動機を殺すとされています。SNSで“いいね”を求めて投稿し続けるうちに、人は“誰かに見られるために生きる”ようになる——これが自己表現の終焉ではないでしょうか?」

肯定側第四発言者
「でも、その“誰かに見られる”ことが、救いになる人もいるんです。鬱で部屋に閉じこもっていた少女が、Twitterで一句を投稿したら「私も同じ気持ち」というリプライが300件来た——その日、彼女は初めて窓を開けました。否定側は、SNSの構造的欠陥ばかり見るあまり、そこで実際に命をつなぐようなつながりが生まれている現実を見落としていませんか? リスクはある。でも、それを理由に可能性を全否定するのは、雨が降るから傘を捨てるようなものです。必要なのは、リテラシー教育と倫理的デザインの進化です!」

否定側第四発言者
「傘を捨てるのではなく、傘が実は雨雲を呼び寄せていたと気づくべきです。SNSは“つながり”を提供しているように見せかけて、実は“比較の檻”を作っています。あなたの友達がハワイ旅行に行き、隣の人が昇進し、同級生が婚約——そのたびに、あなたの自己価値は少しずつ削られていく。これは“つながり”ではなく、“監視付き競争”です。自己表現の目的は内面の解放のはずなのに、SNSはそれを“他人との相対評価ゲーム”に変えてしまった。冬が寒いから春を否定しない——その通りです。でも、春の花が全部プラスチック製だったら? 見た目は華やかでも、香りも命もない。それが今のSNSの自己表現です。」


最終陳述

肯定側最終陳述

審査員の皆様、本日私たちは一貫してこう主張してきました——SNSでの発信は、現代における自己表現として極めて有益であると。

なぜなら、自己表現とは「完璧な真実の告白」ではありません。それは試行錯誤であり、他者との対話の中で形作られる、流動的で創造的なプロセスです。SNSはまさにそのプロセスを可能にする公共の広場です。障がいを持つ少女がイラストで内面を語り、地方の若者が方言で詩を投稿し、LGBTQ+の青年が初めて「自分を受け入れてくれたコミュニティ」に出会う——こうした瞬間は、単なる「いいね」の数ではなく、人間としての存在を認め合う尊い交わりです。

否定側は「SNSは仮面を被らせる」と言いますが、果たして私たちは日常でも“完全な素顔”で生きているでしょうか? 仕事では礼儀正しく、家族には優しく、友人にはユーモラスに——私たちは誰しも、状況に応じて自己の一面を選び出して表現しています。SNSも同じです。フィルターも演出も、自己をどう見せたいかという意志の表明であり、それが自己疎外だと言うなら、人間関係そのものが否定されてしまいます。

そして何より、リスクがあるからといって可能性を閉ざすのは、火を恐れて文明を放棄するようなものです。炎上も依存も、それはSNSの本質ではなく、使い方の問題です。だからこそ必要なのは禁止ではなく、メディアリテラシーの教育、共感的なコミュニケーションの育成です。

SNSは完璧ではありません。しかし、これまで声を持てなかった無数の人々に「私はここにいる」と言わせたこのプラットフォームを、私たちは「有益ではない」と切り捨てるべきではありません。

自己表現とは、まず声を上げることから始まる
その第一歩を、SNSは誰にでも与えてくれました。
だからこそ、私たちは確固として——SNSでの発信は自己表現として有益であると主張いたします。


否定側最終陳述

審査員の皆様、本日の議論を通じて明らかになったのは、SNSが「自己表現の場」ではなく、「自己商品化の市場」に成り果てているという現実です。

肯定側は「誰でも発信できる」と言いますが、本当にそうでしょうか? アルゴリズムは99%の投稿を沈黙させ、バズるのはごく一部の「エンゲージメントに最適化されたコンテンツ」だけです。これは民主化ではなく、見えない審査員による新たな検閲です。量の拡大が質の深化を保証しないどころか、「発信の自由」という幻想の下で、私たちは自らを監視し、編集し、売るようになっているのです。

心理学の研究が示す通り、人間の自己価値は本来、内的な尺度によって支えられるべきです。しかしSNSはそれを「いいねの数」「フォロワー数」「再生回数」という外部指標に置き換え、「あなたは承認されてこそ価値がある」と刷り込みます。これは自己実現ではなく、条件付きの自己価値——つまり、永遠に満たされない飢えです。

そして最も深刻なのは、SNSが生み出す「つながり」が、実は排他的なエコーチェンバーにすぎないこと。似た意見ばかりが集まり、異なる声は排除される。その結果、私たちは多様性を失い、対話能力を喪失し、社会は分断されていきます。これが「有益な自己表現」でしょうか?

哲学者ハンナ・アーレントは、「公共性とは、他者との差異を直視し、対話によって世界を共有すること」だと言いました。しかしSNS上の自己表現は、差異を消し、同調を強制し、対話をショートカットする。それは公共性の崩壊です。

私たちは技術を否定しません。しかし、中立に見えるシステムが、実は人間の弱みを巧みに利用していることに目を背けてはなりません。

SNSは自己表現を解放したのではなく、自己を競争原理と承認欲求の檻に閉じ込めたのです。

だからこそ、私たちは断言します——
SNSでの発信は、自己表現として有益ではない
むしろ、私たちは今こそ、本当の意味での自己表現を取り戻すための静かな場所を求めるべきです。