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遺伝子編集技術(CRISPRなど)を人間に適用してはいけないか?

遺伝子編集技術(CRISPRなど)を人間に適用してはいけないか?

開会の主張

肯定側の開会の主張

皆さん、こんにちは。
私たちは今日、「遺伝子編集技術を人間に適用してはいけない」と主張します。

CRISPRのような技術は、確かに科学の金字塔です。しかし、それが「できる」ことと「すべき」ことには、天地ほどの隔たりがあります。
私たちが問うべきは、「どれだけ病気を治せるか」ではなく、「どれだけ人間らしさを失うか」です。

まず第一に、人間の尊厳と自然の秩序への不可逆的な侵食があります。
遺伝子編集は、生命の根源である「生まれ持った運命」を、設計図のように書き換える行為です。
これは、生命を「改良すべき素材」と見なすプロダクト思考の始まりです。
赤ん坊のDNAを改変するとき、私たちはすでに「この子は〇〇になれるように作られた」というラベルを貼っているのです。
それは、人間を「結果」で評価する社会への扉を開く――そして、その先にあるのは、ナチスの優生学とは違う何でしょうか?

第二に、社会的不平等の固定化と新たな差別の誕生です。
富裕層だけが「賢い」「病気になりにくい」「見た目が良い」子どもを作れる世界。
これを「ジェノクラシー(遺伝的貴族制)」と呼びましょう。
一度遺伝子に格差が刻まれれば、それは世代を超えて継承されます。
努力も才能も、出生時点で遺伝子によって決定されてしまう――そんな世界で、誰が「公平な機会」を信じられるでしょうか?

第三に、科学的未熟さと予期せぬ連鎖反応のリスクです。
CRISPRは確かに精密ですが、「完全」ではありません。
オフターゲット効果――狙った場所以外のDNAを傷つける――は、がんや新たな遺伝病を引き起こす可能性があります。
しかも、生殖細胞への編集は、その人の子孫にも影響します。
つまり、私たちの一手が、未来の何十世代にもわたって遺伝するのです。
「失敗した」と気づいたときには、もう手遅れです。

最後に、スリッパリー・スロープの恐怖です。
最初は「重い遺伝病の治療」と言い、次は「軽い病気の予防」、そして「知能の向上」「容姿の最適化」へと。
一度線を引いても、技術の誘惑の前では、その線はすぐに消えてしまいます。
「治療」と「改良」の境界など、砂の城にすぎません。

だからこそ、私たちは今、毅然とこう言うのです――
「できないことを嘆くより、できることを恐れよ。」
遺伝子編集技術の人間への適用は、禁止されるべきです。


否定側の開会の主張

皆さん、こんにちは。
私たちは、「遺伝子編集技術を人間に適用してよい」と断言します。

確かに、この技術にはリスクがあります。しかし、それを理由に「使わない」と決めることは、19世紀に「麻酔を使うな」と言ったのと同じくらい非人道的です。
医学の使命は、「苦しみをなくすこと」です。
ならば、その最大の武器を封印する理由があるでしょうか?

まず第一に、遺伝性疾患の根絶という人類史的チャンスです。
ハンチントン病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、シックルセル病――これらは、DNAのたった一つの文字のミスで引き起こされます。
CRISPRを使えば、その誤字を修正できる。
それは、病気の「原因」ではなく「結果」ばかりと戦ってきたこれまでの医学の paradigm shift(パラダイムシフト)です。
「治療」ではなく、「予防」。いや、それ以上――「根絶」です。

第二に、技術は規制によって安全に使える
「危険だから使わない」ではなく、「危険だからこそ、厳しく管理して使う」のが成熟した社会の対応です。
車は事故を起こす。でも、交通法規とシートベルトと自動ブレーキで、私たちは安全に走っています。
遺伝子編集も同じです。国際基準、倫理委員会、臨床試験の透明性――これらの仕組みがあれば、リスクは最小化できます。

第三に、親の選択の自由と子どもの幸福の追求です。
親は常に、子どもに少しでも良い人生を送ってほしいと願います。
ワクチンを打つのも、良い学校に入れるのも、すべて「最善の選択」です。
ならば、遺伝子レベルで病気のリスクを減らすことも、その延長線上にあるのではないでしょうか?
「自然のまま」が美徳なら、なぜ抗生物質やインスリンは使っていいのでしょうか?
自然は残酷です。私たちの使命は、それに立ち向かうことにある。

そして第四に、禁止が招く影のリスクです。
技術を地上で禁じても、地下では動く。
富裕層は海外の規制の緩い国で「デザイナー・ベイビー」を作る。
そうやって、不平等は隠蔽され、監査もされず、事故が起きても表に出てこない――これが本当に望ましい世界ですか?

私たちのビジョンは明確です。
「遺伝子編集を悪魔の力と見るのではなく、灯台の光として使う」 ことです。
闇を恐れて火を消してはいけません。
正しい使い方を学び、ともに照らすべき道を進むのです。

だからこそ、私たちは断言します――
遺伝子編集技術の人間への適用は、禁止ではなく、責任を持って進められるべきです。


開会主張への反論

肯定側第二発言者の反論

―― 否定側第一発言者の発言に対する反論

皆さん、聞いてください。

否定側はさきほど、「遺伝子編集は麻酔と同じくらい安全で、規制でコントロールできる」と言いました。
でも、麻酔は一時的な措置です。
遺伝子編集は違います。
一度書き換えたDNAは、子孫にまで伝わります。
それは「治療」ではなく、「人類という種の改変」です。

彼らは「規制があれば大丈夫」と楽観していますが、
本当にそうでしょうか?

世界には195カ国あります。
国際基準? 確かにWHOはガイドラインを出しています。
でも、中国のヘジャンクイ氏が双子の赤ちゃんの遺伝子を勝手に編集したとき、
その「国際基準」は何をしましたか?
何もできなかった。
彼はその後、研究機関から追放されましたが、
その子たちは今も生きています。
誰も、その遺伝子が何世代後にどう影響するか、わからないのです。

否定側は「車と同じだ」と言いますが、
車の事故は個人の被害で終わります。
遺伝子編集の失敗は、人類の遺伝プールに永久に汚染を残す――
これは「交通法規」では防げないレベルのリスクです。

そしてもう一つ。
彼らは「親の選択の自由」と言いますが、
自由には境界があります。
例えば、親が子どもに「戦士になるように」筋肉を強化したら?
あるいは「音感を持たせたい」と脳の聴覚野を改造したら?
どこで線を引くのか。
「病気の予防」と「能力の強化」の違いは、
技術的にはわずかな違いでしかありません。
しかし、社会的には天と地ほどの差です。

否定側は「禁止すると地下市場ができる」と恐れますが、
それこそが私たちの警告する「スリッパリー・スロープ」そのものではないですか?
「少しの例外から始めて、気づいたら全面解禁」という流れです。
だったら、最初から明確な「ノー」を言うべきではないでしょうか。

最後に――
彼らは「自然は残酷だから、それに立ち向かうべき」と言います。
でも、抗生物質やインスリンは「自然からの逸脱」ではありません。
それらは体の機能を「回復」するだけです。
一方、遺伝子編集は「超越」を狙っています。
生まれる前から、誰かが決めた理想像に従って作られる人間――
そんな世界で、私たちはまだ「人間らしさ」と呼べるものを守れるでしょうか。

だからこそ、私たちは言います。
「救いの名のもとに、人間の本質を犠牲にしてはならない」
規制では足りない。
今はまだ、遺伝子編集を人間に適用しないという、
断固とした選択が必要です。


否定側第二発言者の反論

―― 肯定側第一および第二発言者の発言に対する反論

ありがとうございます。

肯定側は非常に情感に訴える演説をされました。
「人間らしさ」「尊厳」「ナチスの優生学」といった言葉が連続しましたね。
でも、感情に包まれた言葉の裏に、
本当に論理は存在しているのでしょうか?

まず一点目。
彼らは「生殖細胞編集は子孫に影響するから危険」と言います。
確かに影響します。
でも、その影響が「悪」であるとは限りません。
例えば、ある家族が何世代にもわたってハンチントン病に苦しんできたとしましょう。
その遺伝子を一度修正すれば、未来の全子孫がその苦しみから解放されます。
これは「汚染」ではなく、「祝福」です。
否定するのは、その子たちの幸福を奪うことに他なりません。

二点目。
彼らは「ジェノクラシー(遺伝的貴族制)」を恐れています。
でも、社会的不平等は、遺伝子編集以前から存在しています。
裕福な家庭の子どもは、良い教育を受け、栄養価の高い食事を食べ、
最新の医療を受ける。
それもすべて「不公平」だとでも言うのでしょうか?
ならば、学校も病院も廃止すべきですね。
現実には、技術は時間とともに民主化されます。
スマホだって、最初は一部の特権階級だけのものでした。
今では誰もが持っています。
遺伝子編集も、初期は高価かもしれませんが、
将来的には公的支援や保険適用で、誰もがアクセスできるようになります。

三点目。
彼らは「治療と改良の境界が曖昧」と言いますが、
医学は常にその境界を議論しながら進んできました。
成長ホルモン注射は、身長の矮小症の治療か?
それとも、単に「背を高くしたい」親の願望か?
ADHDの薬は、病気の治療か?
それとも、試験勉強の集中力向上のための「スマートドラッグ」か?
こうした問題は、遺伝子編集に限った話ではありません。
だからといって、医学全体を止めるべきだと言う人はいないでしょう。

四点目。
彼らが「ナチスの優生学」と同じだと主張するのは、
あまりに安易なレトリックです。
ナチスは、国家が個人を強制的に淘汰しました。
一方、現代の遺伝子編集は、個人の意思と医療の判断に基づきます。
目的も手段も、根本的に異なります。
このような不当な類比は、真剣な議論を妨げるだけです。

最後に――
彼らは「できないことを嘆くより、できることを恐れよ」と言いました。
とても詩的ですね。
でも、もし過去の人がその言葉を信じていたら、
抗生物質も、心臓移植も、IVF(体外受精)も、
すべて「恐れるべきこと」として封印されていたはずです。
人類の進歩は、「恐れ」ではなく、「希望と責任」によって築かれてきたのです。

だからこそ、私たちは言います。
「技術を恐れるのではなく、無知と怠慢を恐れよ」
遺伝子編集は、悪魔でも神でもありません。
それは、私たちがどう使うかで決まる――
ただ一つの、強力なツールです。
それを捨て去るのではなく、
いかに正しく灯をともすか――
それが、私たちの責任です。


反対尋問

肯定側第三発言者の質問

肯定側の反対尋問の内容と否定側の回答

肯定側第三発言者
まず、否定側第一発言者へ。
先ほど、「規制があれば遺伝子編集は安全に使える」と述べていましたね。では質問します――
もし、ある国が「知能を10%向上させる遺伝子改造」を公的に許可した場合、それを“治療”と呼べますか?

否定側第一発言者
……その場合は、明確に「改良」であり、現時点での国際合意では認められません。私たちはあくまで「深刻な遺伝病の根絶」を前提としています。

肯定側第三発言者
なるほど。「治療だけ」と。では第二発言者へ。
同じ技術を使って、「ALSの原因遺伝子を除去」するのと、「記憶力を高める遺伝子を挿入」するのとで、技術的な違いはどれくらいありますか?

否定側第二発言者
技術的には似ていますが、目的と倫理的文脈が全く異なります。医学的目的か、能力超越的目的か――それが分岐点です。

肯定側第三発言者
では最後に第四発言者へ。
あなた方は「スマホも最初は高かったが、今では誰もが持っている」と言いました。しかし、スマホが壊れても人類の遺伝プールは汚染されません。遺伝子編集の失敗は世代を超えて残ります。それでも「同じように民主化される」と断言できますか?

否定側第四発言者
リスクは確かに異なりますが、だからこそ厳格な臨床試験と国際監視が必要です。技術の普及とリスク管理は別問題です。

肯定側反対尋問のまとめ

以上、三つの質問を通じて明らかになったのは――
否定側が掲げる「規制による安全神話」の根本的な脆さです。

第一に、彼らは「治療と改良」を線引きしたいが、技術的にはその差はわずかです。一度道を開けば、誰がその線を守れるでしょうか?

第二に、彼らは「民主化」を信じますが、遺伝子の失敗は返品不能です。スマホなら買い替えられる。しかし、編集されたDNAは、未来の子どもたちの運命を縛ります。

第三に、彼らの回答からは一貫して、「理想は良いが、現実の統制力には自信がない」という矛盾した態度が見えました。規制が必要と言いながら、その規制が機能しない事例(例:中国の双子)を無視しています。

つまり――
「管理できる」と言うが、実際に管理できる保証はない。
これが、私たちの警告する「スリッパリー・スロープ」の正体です。


否定側第三発言者の質問

否定側の反対尋問の内容と肯定側の回答

否定側第三発言者
まず、肯定側第一発言者へ。
先ほど、「遺伝子編集はナチスの優生学と同じだ」と述べていましたね。では質問します――
親が子にワクチンを打つことも、「健康な人間を作る」という点では、同じロジックではありませんか? どこで線を引くのですか?

肯定側第一発言者
ワクチンは後天的な防御です。遺伝子編集は先天的な設計です。目的が似ていても、手段と影響の深さが違います。

否定側第三発言者
では第二発言者へ。
あなた方は「自然の秩序を守れ」と言いますが、インスリン注射や人工心臓も自然ではありません。それらは使っていいのに、遺伝子編集はいけない――その基準は何ですか?

肯定側第二発言者
それらは生命の“回復”ですが、遺伝子編集は生命の“再設計”です。前者は緊急時、後者は計画的改変――価値の次元が異なります。

否定側第三発言者
最後に第四発言者へ。
ある家族が、何世代にもわたって遺伝病で苦しんできました。あなたは、その赤ちゃんの遺伝子を編集して病気を防ぐことを、“人間らしさの破壊”だと断じますか?

肯定側第四発言者
苦しみは確かに避けたい。しかし、その手段が人類全体の倫理的境界を越えるものであれば、私たちは「待つ」責任があります。救いの名のもとに、本質を失ってはなりません。

否定側反対尋問のまとめ

以上三つの質問で浮かび上がったのは――
肯定側の立論が、感情的レトリックに支えられた、現実逃避的な理想主義であることです。

第一に、「ナチス」という言葉は衝撃的ですが、ワクチンとの比較で露呈した通り、その類比は破綻しています。国家による強制淘汰と、個人の医療選択を同列に語るのは、議論の矮小化です。

第二に、「自然の秩序」という抽象概念は美しいですが、インスリンや人工心臓を受け入れる以上、その基準は恣意的です。どこまでが「自然の回復」で、どこからが「人為的設計」なのか――彼らは明確な定義を示せませんでした。

第三に、最後の質問に対して「待つべきだ」と答えたこと。
それはつまり、「病気に苦しむ子どもの救済を、哲学的懸念のために延期せよ」という、非人道的な結論です。

技術への恐れは理解できます。
しかし、「完璧な世界ができるまで、何もしない」という消極的禁欲主義は、進歩を止め、苦しむ人々を見捨てる行為そのものです。


自由討論

肯定側 第一発言者
皆さん、否定側は「規制すれば安全」と繰り返しますが、その“規制”の中身は何ですか?
具体的な国際法? 監視機構? 遺伝子改変のログを誰が、どこに、どう保存するんですか?
中国の双子の件ですら、国際社会は手も足も出なかった。
それが“現実の規制”ですよ。
あなた方は「交通法規があるから大丈夫」と車に例えましたが、もし車が一度事故ったら、その破片が何世代にもわたって道路に散らばり続けるとしたら?
それでも「法さえあれば安心」と言えますか?

否定側 第一発言者
では逆に聞きます。
あなた方は「リスクがあるから使わない」と言いますが、
脊髄性筋萎縮症で生後数年で息絶える赤ん坊がいる世界で、
「それは自然だから仕方ない」と本当に言えるんですか?
抗生物質がなければ死んでいた人が何百万人もいた時代を、私たちは知っています。
でも今、それを「自然に従った結果」として受け入れますか?
いいえ。私たちは介入しました。
なぜ遺伝子編集だけが、“触れてはいけない聖域”なんですか?

肯定側 第二発言者
抗生物質は体の機能を“回復”するものです。
でも遺伝子編集は、“生まれる前の人生設計”です。
そこに根本的な違いがあります。
親が子どものIQを130に設定したとして、
その子が「自分は150を目指したかった」と言ったとき、
誰が責任を取りますか?
DNAはハードウェアです。
一度焼いたROMは、ソフトウェアでは消せません。
「選択の自由」なんて、笑い話ですよ。

否定側 第二発言者
でも、環境も同じくらい決定的じゃないですか?
裕福な家庭の子どもは、良い保育園、塾、メンタルケアを受け、
事実上、生まれながらに“能力設計”されていませんか?
遺伝子編集は、それを科学的に明確にするだけ。
差別をなくすには、技術を封印するより、
全員に公平にアクセスさせる方が現実的ではないですか?
「スマホは最初高かったけど、今は誰もが持ってる」と言いましたね。
それと同じです。

肯定側 第三発言者
面白い比喩ですね。
でも、スマホを壊しても、次のモデルが出ればいい。
でも、遺伝子の誤編集で生まれた脳障害の子どもは、
一生、その“ファームウェア”と生きていかなければならない。
しかも、そのバグは子孫にまで引き継がれる。
あなた方が言う「民主化」がいつ来るかわかりませんが、
その間に、何人の子どもが“ベータ版 인간”として生まれるんですか?
技術の実験台になるのは、声のない赤ん坊ですよ。

否定側 第三発言者
では、IVF(体外受精)はどうですか?
30年前、多くの人が「神の領域に踏み込む」と反対しました。
今、世界で800万人以上がIVFで生まれています。
彼らは“不自然”ですか?
彼らの存在が、社会を崩壊させましたか?
むしろ、多くの家族に希望を与えました。
遺伝子編集も、同じ道を歩むべきではありませんか?
「未知=危険」と決めつけるのは、進歩に対する怠慢です。

肯定側 第四発言者
IVFは“選ぶ”技術です。
どの受精卵を使うか。
でも、CRISPRは“創る”技術です。
生命の設計図に赤ペンを入れる。
そこが決定的に違う。
それに、IVFの子どもたちが成長して、「私は選ばれた受精卵じゃない」と嘆くことはありません。
でも、遺伝子編集された子どもは、常に「親の期待の産物」として生きることになる。
自己同一性の危機ですよ。
あなた方は「希望」と言いますが、
その希望の裏側にある孤独を、どれだけ想像していますか?

否定側 第四発言者
確かに、期待のプレッシャーはあるかもしれません。
でも、ピアノを習わされた子どもだって、プロにならなかったら“失敗”だと感じる。
遺伝子編集も、一つの“支援”にすぎない。
大事なのは、社会が多様性を受け入れるかどうか。
技術を悪者にするのではなく、
私たち自身の偏見を問い直すべきではないですか?
「病気をなくす」ことを恐れるより、
「完璧じゃない人間を差別する社会」を変えるほうが、
ずっと重要な課題じゃないでしょうか?


最終陳述

肯定側最終陳述

皆さん。

このディベートを通じて、私たちは何度か問い続けてきました。
――「人間とは何か?」
「生まれる前に設計された人生は、本当に“生きている”と言えるのか?」

否定側は言いました。「これは治療だ」「規制で守れる」「救いの光だ」と。
確かに、その言葉には希望があります。
でも、希望の影には、常に代償が付きまといます。

技術の「できる」を超えて、「べき」を考えよ

CRISPRが「できる」ことは、もう誰も疑っていません。
問題は、「それによって何を失うか」です。
一度生殖細胞を編集すれば、その遺伝子は人類の遺伝プールに溶け込み、未来の世代にまで影響します。
それは、私たちが未来の人間に強いる、同意のない実験です。

スマホが壊れたら買い換える。でも、人のDNAが狂ったら?
子孫が癌を発症しても、元に戻せない。
「失敗は許されない」技術に、「失敗を前提とした規制」で対応できるでしょうか?

自由の名の下に行われる支配

否定側は「親の選択の自由」と言いますが、
その自由の先にあるのは、子どもへの期待という鎖です。
「あなたは知能を上げるために作られたんだ」という言葉を、
どんな子どもが胸を張って受け止められるでしょうか?

昔は、子どもが農民の家に生まれれば、農民になるのが当然でした。
今は、教育でその運命を変えられる。
でも、遺伝子編集が進めば、今度は生物学的に運命が決められる世界が来る。
「自然の残酷さ」から逃れるために、
私たちは「設計された不自由」を受け入れようとしているのです。

境界線は砂の城――スリッパリー・スロープは現実だ

「最初は病気だけ」と言うけれど、
一度「改良」の扉を開ければ、後は技術の論理がすべてを飲み込む。
中国の双子の例を見ればわかるでしょう。
科学者は「HIV耐性」をつけたと言ったが、
実は脳の記憶力に関わる遺伝子も変えていた――意図せず、能力向上の実験になっていた。

これが「管理下」ですか?
これが「安全な規制」ですか?
国際基準が追いつかない中で、
私たちは今、人類という種の未来を賭けたカジノに足を踏み入れようとしているのです。

だからこそ、私たちは断言します。
「技術の前に、人間の尊厳を守る壁を築け」

抗生物質は体を治す。インスリンは機能を回復する。
でも、遺伝子編集は「人間の在り方」そのものを書き換える。
それは医学の延長ではなく、文明の分岐点です。

ナチスの優生学と同列だと言ったのは、レトリックではありません。
同じ手段を使わずとも、同じ結果――
「価値ある生命」と「そうでない生命」を分ける社会――へ向かっていることに警鐘を鳴らしたのです。

最後に、哲学者ハンナ・アーレントの言葉を引用しましょう。

「最も恐ろしいのは、悪意のある行為ではなく、思考停止の中で行われる‘善いこと’だ。」

遺伝子編集は、きっと「善いこと」だと信じられて使われるでしょう。
でも、その善意の積み重ねが、
いずれ人間らしさを静かに蝕んでいく――
その瞬間、私たちは振り返ることさえできなくなるかもしれません。

だから今、私たちはこう言うのです。
「待て」
「考える時間を持て」
「人間であるということの意味を、もう一度問え」

遺伝子編集技術の人間への適用――
それは、してはいけません


否定側最終陳述

みなさん。

肯定側の演説は、とても美しく、詩的でした。
「人間らしさ」「尊厳」「未来の恐怖」――
どれも大切な言葉です。
でも、その美しい言葉の裏で、
今、この瞬間にも、ある子どもたちが苦しんでいます。

ハンチントン病の子どもは、自分の手が次第に動かなくなるのを感じながら、
「なぜ自分だけ?」と泣いています。
シックルセル病の子どもは、激痛に耐えながら、
「普通の生活がしたい」と願っています。

そして、私たちは彼らに向かってこう言うのでしょうか?
「ごめんね。倫理的な議論が終わるまで、待ってて。」

医療の本質は「苦しみの解消」である

医学の歴史は、
「自然のまま」を受け入れず、
「運命に立ち向かう」歴史でした。
ペニシリンは自然じゃない。人工呼吸器も、心臓移植も、すべて「逸脱」です。
でも、それらは命を救ってきた。

ならばなぜ、遺伝子編集だけを「禁忌」として隔離するのか?
そこに一貫性はありません。
肯定側は「自然の秩序」と言いますが、
その秩序の中に、子どもたちの悲鳴は含まれているのでしょうか?

差別を恐れるなら、技術ではなく社会を変えるべきだ

「ジェノクラシー」の懸念は理解できます。
でも、差別は技術のせいではなく、社会の偏見が生むものです。
身長が低いからと馬鹿にされる。成績が悪いからと見下される。
それらはすべて、多様性を認めない社会の問題です。

ならば、技術を止めるのではなく、
社会の成熟を促すべきではありませんか?
教育で包摂を教え、制度で公平を担保し、
メディアで多様な生き方を称賛する――
それが、未来への本当の準備です。

完璧を待てば、救いは来ない

否定側は「規制が追いつかない」と言います。
確かに、今の体制は不十分です。
だからこそ、地上で議論し、ルールを作り、透明性を確保すべきなのです。
地下に追いやって、闇でやるよりも、ずっと安全です。

過去の技術もそうでした。
IVF(体外受精)が誕生したとき、
「神の領域に踏み込む」と非難されました。
でも今、何百万人もの子どもたちがその技術で生まれ、
普通に笑い、恋をし、夢を見る――
それが現実です。

私たちは「神」ではない。しかし「無為」であってはならない

技術は道具です。
それを悪魔と呼ぶか、灯台と呼ぶか――
それは、使う私たちの覚悟で決まります。

「スリッパリー・スロープ」があるなら、
柵を立てればいい
「境界が曖昧」なら、
国際会議で線を引けばいい
「リスクがある」なら、
臨床試験を丁寧に重ねればいい

待っていても、完璧な世界は来ません。
でも、一歩踏み出せば、
一つの命が救われるかもしれない

最後に、医師ヒポクラテスの誓いの一節を思い出してください。

「私はあらゆる害と不正から患者を守ろうとする。」

その「害」には、
遺伝病による苦しみも含まれます。
その「不正」には、
救える技術があるのに使わないという消極性も含まれるでしょう。

だから、私たちはこう言います。
「恐れるべきは技術ではなく、無知と無関心だ」
「封印ではなく、責任ある前進を選ぼう」

遺伝子編集技術の人間への適用――
それは、禁止すべきではありません
慎重に、誠実に、共に使っていくべきです。